2026/02/06 21:01

木目金の作品を作っていると、「ご自身で身につけるのですか?」と聞かれることがよくあります。
もちろん、自分自身の手を飾るために作ることもありますが、実際はその逆です。私の元に届く注文の多くは、最初から“誰かに贈るため”のものです。
なぜ、自分を飾るためのアクセサリーだけを作らないのか。
なぜ、私の作るものは、誰かの手に渡るための形を成していくのか。
最初からそう意図していたわけではありません。ただ、木目金という素材と向き合い、それを選ぶ人たちの姿を見つめ続けてきた結果、自然とこの場所に立っていました。
売り場で見てきた、静かな時間
これまで、百貨店の催事場や自身の教室、あるいは対面販売の場で、多くのお客さまと対峙してきました。そこで目にしたのは、流行を追う姿ではなく、もっと切実で、静かな「選択」の風景です。
贈り物を探している方は、単に「高いか安いか」や「見栄えが良いか」だけで判断をしません。
手に取り、重さを確かめ、木目の重なりをじっと見つめる。そのとき、お客さまは私と話をしているのではなく、頭の中にいる「贈る相手」と対話をしているように見えます。
「あの人の手には、この質感だろうか」
「この重みは、あの人の生活に馴染むだろうか」
説明を尽くすよりも、お客さまがふっと黙り込み、指先で金属の肌に触れる瞬間に、本当の納得が宿る。その沈黙の重さを知るたびに、私は「自分が作りたいもの」以上に「誰かの想いの受け皿になるもの」を作らなければならないと強く感じるようになりました。
“残る物”を作ると決めた理由
かつて、流行に合わせて形を変え、効率よく量産することを考えた時期がなかったわけではありません。しかし、私はその道を選びませんでした。
木目金は、異なる金属を積み重ね、鍛え、削り出すことで模様を出す技法です。同じ模様は二度と出せません。それを「希少価値」という言葉で売り文句にするのは簡単ですが、私にとっては少し違いました。
同じものが作れないということは、作り手である私ですら、その一点をコントロールしきれないということです。それは不安でもありますが、同時に、その一点が「その時、その場所でしか生まれなかった」という動かしがたい事実になります。
効率を優先して平均化されたものを作るのではなく、たとえ不器用であっても、十数年後に手にした時、選んだ時の記憶が呼び起こされるような質感。その「残り方」に、私は自分の制作の軸を置くことに決めました。
「劣化」ではなく「美化」という時間
そしてもう一つ、私が木目金に託しているのは「時間」そのものです。
金属は、使えば使うほど傷がつき、色は変化していきます。それを「劣化」と捉えるのではなく、私は「経年美化」と呼びたい。年月を経て、使い手の癖や手の油分が馴染み、その人だけの深い色合いへと育っていく。
作り手が完成させた瞬間は、あくまでスタートに過ぎません。贈られた人が使い込み、年を重ねることで、ようやくその木目金は「完成」に向かいます。世界にたった一つ、その人のためだけの特別な色を、使い手自身に作り出してもらう。その余白を残しておくことが、作り手としての誠実さだと思っています。
道具へと行き着いた必然
最近の制作は、装身具だけでなく、ボールペンやカラビナといった「道具」に比重が移っています。
なぜ、身体を飾るためだけのものから、手の中で使われる道具へと至ったのか。
それは、道具がもっとも「経年美化」を体現するからです。
特別な日のためだけの美しさではなく、書く、留める、触れるといった、何気ない日常の動作。その積み重ねが、木目金の層に新たな表情を与えます。贈られた人が、日々の営みの中で無意識にその質感に触れ、ふとした瞬間に贈った人の判断を思い出す。その連続性の中にこそ、木目金という素材の真価があると感じたのです。
一度にたくさんは作れません。一つひとつの金属の層を重ねる時間は、そのまま、誰かが誰かを想う時間の密度に比例するべきだと思っているからです。
結びに
木目金は、
使う人より、
それを選んだ人の判断が残る素材だと思っています。
あの時、なぜこれを選んだのか。
その問いの答えは、言葉ではなく、年月を経て深まった金属の風合いが語ってくれるはずです。
だから私は、
自分のためより、
誰かの節目に手渡される物を作り続けています。